History

スリランカは古代から、様々な名前で知られている。ギリシャ人は「タプロバネー」と、アラブ人は「セレンディブ」と呼んでいた。昔の植民地時代は、ポルトガル、オランダ、イギリスはそれぞれ、「セイラオ」、「ゼイラン」、「セイロン」と呼んでおり、おそらく「シンハラドゥウィーパ」に由来している。スリランカは古代の「輝く島」という土地固有の意味がある。 

スリランカは125,000年前に既に人類が生存していたことが、南東海岸から発掘された人骨から証明されている。スリランカの記録上の歴史は、紀元前6世紀頃、主に北インドからの移住者の到来と共に始まった。彼らは、移住の一つの流れ以上に、北西部、北部、北東部、東部の乾燥地帯に定住した。何世紀と経つにつれ、移住者達は徐々に島の原住民達と混ざり合っていった。しかし、原住民の1グループの子孫は、移住者達から離れ、いまだに国に居住している。これをウェッダー・コミュニティと呼ぶ。

インド外部へ仏教を普及させたことで有名なインドのアショーカ王の息子、マヒンダ(ミヒンドゥ)長老により、紀元前243年に仏教がスリランカへ伝えられた。仏教概論やその文化は政治、経済、社会、文化、哲学、教育、また技術的分野にまで影響を及ぼした。仏教と共に、ブラーフミー文字もスリランカへ伝えられた。今日のスリランカ・シンハラ語の文字は、ブラーフミー文字から考案された。 

北部平地の乾燥地帯に移住者が定住したので、灌漑の大きな設備が発達し、食物の自給に役立った。この灌漑設備は、島の中央部の丘から流れる水と同様に、季節毎の雨水を集める為の巨大な貯水池を作る為に、ダムをせき止めている川から成る。この間、水力発電技術は精巧なレベルまでに発展した。一勾配(坂)は1.6kmで、わずかヨーダ・ウェワでは 2.5cm62.8kmの人口運河は、今日の北中央地方の平地乾燥地帯を流れている。10,000以上の中・小の貯水池と100以上もの大きな貯水池がある。それらのほとんどが、今だに使われている。   

広大な人口貯水池や仏舎利塔、寺院、池、仏像等の巨大な仏教記念碑は、北中央部の景色を独占し、紀元前4世紀から1017年まで栄えたアヌラーダプラ文明の繁栄を十分に証明するものである。 

アヌラーダプラの素晴らしい建築の中には、世界遺産に指定されている。他の建物に加えて、巨大な塔があるジェータワナー・ラーマヤやアバヤギリ寺院等、数多くの大きな寺院も含まれている。塔の中にはとても大きなものがあり、例えば、1周するのに10分かかるルワンウェリサーヤ大塔がある。ジェータワナー・ラーマヤ塔は、(高さ約121.2mあり、スリランカでは最も高い塔)この時期に建設され、404フィートあり、エジプト・ギザの最大ピラミッドと同じ高さである。両塔の基礎は同じである。それが偶然の一致か故意なのかは、未だに解明されていない。これらの塔は、ほとんど現在も残っている。もう一つの寺院、ローワーマハー・プラサーダ(パーヤ)は7階建ての寺で、岩の柱の上に建てられたと言われている。    

他にアヌラーダプラ時代を特徴付けているものでは、彫刻芸術が挙げられる。修道院の中のお寺に祭られている何百もの仏像や高さ10メートルもある巨大な仏像は、ほとんどが石から彫刻で作られたものである。「サマーディ仏像」はアヌラーダプラにある座像で、彫刻の素晴らしさで有名である。像の顔の表情は、仏陀の沈着、落ち着き、やさしさ等を強調している。 

とても小さなものから大きな池は、煉瓦や石の塊で建てられた壁があり、装飾的な意味もある。「象の池」(その大きさから名付けられた)はアバヤヤギリ寺院の近くにあり、現代のオリンピックプールの6倍もある。しかし、寺院とのその使用関係は未だに疑問である。僧侶や王族が入浴をするという目的で作られた池もある。ティサーウェワ(貯水池)付近のランマス・ウヤナは、アヌラーダプラの女王が使っていた。その池は脱衣所、休憩室に囲まれ、自然風景やティサーウェワの堤防とよく調和している。   

シーギリヤは、アヌラーダプラ時代の歴史の中で特別な場所であった。5世紀に18年間首都として機能し、カッサパ(カーシャパ)王がアヌラーダプラからそれ程遠くない巨大な岩の上に、自分の宮殿を建設した。それは建築、風景、水の庭園、玉石庭園、フレスコ絵画、鏡壁、それに描かれた叙事詩等で有名である。シーギリヤも、世界遺産の一つである。 

考古学者は、カッサパ王が富の神クべーラ王のように生きたかったと信じており、クベーラ宮殿周辺でよく起こる稲妻や雷を描写するフレスコ壁画を描き続けている。他の者には、そのフレスコ壁画はカッサパ女王やメイド達がピドゥランガラの近くのお寺に行く用意をしている風景だと言われている。    

その時代後期には、アヌラーダプラは徐々に衰退し、首都としては終焉を迎えた。これは、主に南インド王国からの度重なる侵略と内部のもめごと同様に、情勢を支配できなくなった権力の弱い王達が続いた為である。 

首都がポロンナルワに移転されたのは、主に戦略的な理由があります。1017年から 125年までのポロンナルワ時代に、多くの美しい建築様式で都市を引き立たせた3人の王達により優れた発展が成し遂げられた。ロイヤルパレス、観客ホール、仏教寺院、仏舎利塔、ヒンドゥー教寺院、池等が建てられました。    

ポロンナルワの王達は、南インドの王朝でどのように内政が影響しているかを認識し、南インドの王女と結婚することで戦略的な同盟を築いた。このように、ポロンナルワの芸術と建築は、アヌラーダプラに比べると、南インドの芸術と建築に多大なる影響を及ぼした。ポロンナルワも世界遺産の一つである。 

しかし、この同盟や首都の移転は侵略を終わらせることはなく、益々増えていった。首都と定住は、南方の湿地帯へと徐々に移動していく。首都はそれから6世紀の間、湿地帯のダンバデニヤ、ヤーパフワ、スリージャヤワルダナプラコーッテ、キャンディ(世界遺産)へと移転された。   

度重なる湿地地帯への首都の移転と共に、乾燥地帯で農業を支えていた灌漑設備は、徐々に衰えていった。経済を独占していた農業は、ヨーロッパや中東におけるスパイス、宝石、異国情緒のある動植物の増加する需要と共に、貿易中心の経済へと少しずつ変化していった。 

この島に最初に訪れたヨーロッパ人はポルトガル人であり、16世紀、東部以外の湾岸平地の大部分を支配下に置いた。彼らはキリスト教も伝道した。ポルトガル文化の影響は未だにこの島には残されている。良い例では、バイラという歌で、地元文化に溶け込んでいる言語や食べ物等の一部として、残されている。 

 

1658年にポルトガルは、今日も使われているローマンダッチ法を紹介したオランダに追い出された。オランダ建築は、スリランカ建築に多大に影響を及ぼし、その時代のオランダ建物は秘蔵の考古学碑として保存されている。ゴールのオランダ砦も世界遺産である。この期間のオランダ家具は、大いに影響を及ぼし、今日に至っても複製されている。 

キャンディ(中央丘陵部)に最後の王国があった時、オランダの海岸地域の所有を譲渡されたイギリスが、最終的には島全体を支配下に置いた。イギリスは最初に丘陵部に、プランテーション穀物としてコーヒーを紹介し、後に紅茶にとって代わった。ゴムは低地で栽培されている。鉄道や道路は経済的・社会的生産基盤となり、プランテーション付近で経済が発展した。

1930年代に万人の成人選挙権が国に導入された時、強力な民主主義の基盤が固められた。スリランカは1948年にイギリスから独立を果たした。1955年には国連に参加し、1961年初めて非同盟のメンバーとなった。1972年には共和国なり、イギリス連邦に残ることを決めた。1985年以来、南アジア地域協力連合のメンバーである。 

独立後スリランカは、福祉の発展を遂げてきた。識字率の標準(91.8%)、教育、健康(平均寿命女性74.2歳、男性69.5歳)、発展途上国では最良の栄養状態である。UNDP(国連開発計画)やUNICEF(国連児童基金)評価では、スリランカはHDI (人類開発指標)の基本で発展途上国の中では一番とされている。